第74回定期演奏会詳細解説
メンデルスゾーン(1809~1847)
英国国教会のための3つの典礼音楽 作品69
Herr, nun lässest du deinen Diener in Frieden fahren
主よ、いまこそあなたはこの僕(しもべ)を安らかにいかせ給え(Op.69-1)
Jauchet dem Herrn alle Welt
全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ(Op.69-2)
メンデルスゾーンは19世紀に最も天分に恵まれたドイツの作曲家の一人です。ロマン主義の時代に生まれたが、本質的には古典主義者であり同時代の作曲家から受けた影響よりもバッハ、ヘンデル、モーツァルトらからより多くを学びました。17歳で『真夏の夢序曲』を作曲し、わずか38歳でその生涯を閉じた早熟の天才でした。
メンデルスゾーンは、亡くなる年の1847年5月5日、イギリスからの帰途にフランクフルトで姉ファニーの突然の死を知り、失神するほどの大きな打撃を受けました。お互いの作品を助言し合った作曲上の無二の同志を無くした彼は深刻な抑うつ状態に陥りました。スイスの保養所でようやく創作意欲が回復し、6月に静養先のバーテン・バーテンでこの曲が作曲されました。英国国教会の晩禱用としてOp.69-1が、早禱用にOp.69-2が作曲されました。したがってはじめ英語のテキストに作曲され、彼の死後1848年にドイツでの出版の際にドイツ語の歌詞が付けられました。
Op.69-1は「シメオンのカンティクム」と呼ばれる讃歌です。歌詞は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」とお告げを受けたシメオン老人が、ようやく主に出会い「主よ、いまこそあなたはこの僕を安らかに逝かせて下さい」と訴える内容です。この作曲の年に夭逝したメンデルスゾーンに内容が重なってしまい、なんとも辛いことです。ヨーロッパの諸都市から引っ張りだこで超過労状態にあったメンデルスゾーンには当時の旅は危険を伴う厳しいものでした。現代の神様であればドクターストップを告げていたのではないでしょうか。
テキストは英語のルカによる福音書第2章29~32節(ドイツ語訳者は不明です)が採られていますが、「安らかに逝かせてください」のフーガで始まり、soloと指示された「私はこの目であなたの救いを見たからです」を経て『異邦人を照らす光』「イスラエルの誉れ」が付点のリズムを伴って力強く歌われ、冒頭の「安らかに逝かせてください」が繰り返されて締めくくられます。最後に典礼で定まっている「父と子と聖霊に栄光あれ」の小栄唱が添えられています。
Op.69-2は詩編100が歌詞で、「全地よ、主にむって喜びの声をあげよ」と神への信頼と感謝に満ちた歌詞がまっすぐに全力で歌われます。「彼は神、我らの主」がtuttiで力強く歌われ、「おお、感謝しつつ主の門に進み」で短調のメロディがテノールから開始してソプラノ、バス、アルトと続きます。「なぜなら、主は思いやりがあるから」と締めくくられます。この曲も最後に「父と子と聖霊に栄光あれ」の小栄唱が添えられています。
祖父が高名なユダヤ人哲学者で、父の代にプロテスタントに改宗し、自身は幼い時にプロテスタントの洗礼受けたメンデルスゾーンですが、カトリック、イギリス国教会、プロテスタントと教会を問わず、このような典礼の為の珠玉の作品を生み出しました。しかし、残念ながらこれらを作曲した1847年の11月4日に脳溢血でなくなりました。臨終に立ち会ったピアニストで作曲家のモシュレスは「天使のように安らかな彼の顔つきには、彼の不滅の魂が押されていた」と語っています。
ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(1839~1901)
ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガーは1839年リヒテンシュタインで生まれたロマン派後期に活躍したドイツ・カトリック音楽史上最も重要な音楽家で、西欧においてはモーツアルト、ベートーヴェン、ブルックナーらオーストリアの音楽家と並び評されています。彼の故郷のリヒテンシュタインは、オーストリアとスイスには挟まれたライン川源流に沿った小豆島ほどの小さな国です。彼は幼少から並外れた音楽の才を示し、7歳で首都ファドーツのフローリアン教会のオルガニスト、12歳からはドイツのミュンヒェン音楽院に学び、1859年から死の直前まで長きにわたり同校の教授として、フルトヴェングラー等多くの後進を育てました。1877年にはミュンヒェン宮廷楽長にも就任。前任者は合唱教則本(コーリュブングン)の編集で知られるF.ヴュルナー、更に遡ればラッソ、ガブリエリにまでたどり着く伝統ある地位です。この楽長として、19世紀後半を代表する貴重なカトリック教会の数多くの典礼曲を生み出しました。
作曲はオーケストラ、室内楽、劇音楽、オルガン、合唱曲等に及び、幅広い活動で名声を得ますが、晩年は寂しく、1892年に大きな支えであつた妻ファニーが他界、弟子たちの多くは、彼の志向に合わなかった新ドイツ派やワグネリアンの道を歩みます。1897年ブラームスの死去にはミサ曲(op.187)を献呈。1901年音楽院の教授を退職した数週間後に亡くなりました。
ラインベルガーの作曲を語るためには、19世紀にドイツに起こった『ツェチリア運動』に触れる必要があります。18世紀のヨーロッパに広がった啓蒙思想とその反キリスト教的運動などにより、教会は混迷し、プロテスタント、カトリックを問わず、その典礼は真の精神を失い、啓蒙的合理主義とロココ的現世主義が横行するようになりました。このような中で見直されて来たのが中世・ルネッサンス以前の聖なる音楽でした。中でも19世紀の中頃にドイツのカトリック教会で盛んになった『ツェチリア運動』では、「真実の教会音楽とは」の問いかけが強くなされ、「パレストリーナの伝統こそが唯一真実の教会様式である」との見方が有力になり、16世紀の無伴奏多声様式の復興に光があてられました。そしてそれ以外の大規模教会音楽を締め出すなどの過激な行動が行われ、一時はハイドン、モーツァルトなどの作品は教会から追い出されてしまいます。しかし、この伝統を再び興すのは不可能であることもまた認識され、そのジレンマに芸術家たちは苦悩します。そうした中でラインベルガーは古典派以前の巨匠たちの作品を熱心に調査し、多声合唱曲の学習に専念しました。なかでもベートーヴェンの手法を研究するなどの中で、「伝統と新しさを巧みに融合させること」にその解を見出して行きました。
Cantus Missae Es‐dur カントゥス ミサ (Op.109/1878)
ラインベルガーは18曲ものミサ曲を作曲しました。このCantus Missae 変ホ長調Op.109はオルガン付きの他のほとんどの曲と異なり、唯一の無伴奏二重合唱の作品で、初期の巨匠たちの声楽ポリフォニーに対するラインベルガーの関心が伺えます。作品全体から先の『ツェチリア運動』に対する彼の答えが色濃く見られ、パレストリーナらのルネッサンス・ポリフォニー、ガブリエリらのヴェネツィアの音楽、バッハおよびその時代の対位法、そしてベートーヴェンらの中期の作品の影響が随所に現れています。
自筆譜に記されている彼の妻のメモによるとこの曲は1878年1月13日から18日までのわずか5日間で作曲されました。初演は作曲の1年後1879年の元旦に自らの指揮で宮廷教会にて初演され、作品は教皇レオ13世に献呈されました。
キリエ(Es-dur 4/2)
慈しみに満ちた音によるヴェネツィアの二重合唱対話形式で始まり、すぐにルネッサンス・ポリフォニーが現れます。中盤から始まるChriste eleisonから各声部毎に印象的に現れる上昇音階はまさに主の憐み・救いの象徴の様です。
グロリア(Es-dur 3/2)
8声の全合唱で始まり、Et in terra paxはグレゴリア風旋律テーマ形式で、神の栄光が二つの合唱でそれぞれ力強く歌い交わされます。Quoniam tu solus sanctusからは8声で高らかに歌われ、Cum sancto spirituからは伝統的なフーガで神の栄光を歌い曲が結ばれます。
クレド(c-moll 4/2)
Credoでは、派手な音楽表現は極力避けられ、淡々と信仰告白の言葉が語られます。全体を3部に分け、ベートーヴェンの「ミサソレムニス」に見られる様なCredoのテーマによる音楽の関連付けにならい、冒頭ではCredo in unum Deumのテーマを要所に配置し繰り返すことで、楽章の統一感を形成しています。第2部のEt incarnatus estでもベートーヴェンを範として「古風なスタイル」で開始。第3部Et resurrexitでもその範を意識した「拍節法崩し」を採用。一方、et unam sanctamの多声部によるテーマでは、当時の新しいハーモニー進行が現れます。最後のEt vitam venturiから2つのコーラスがひとつになって豊かな祈りの中で「来世の生命」を待ち望み曲が結ばれます。
サンクトゥス(Es-dur 4/2)
はじめ、4声の女声合唱と男声合唱との対比が美しいローマの伝統的な下降音型で始まり、osanna in excelsisに向けどんどん高揚して行きます。
ベネディクトゥス(As-dur 6/4)
清らかで静かな4部合唱で始まり、第二コーラスがまた美しい4部合唱でそれに応えます。すぐに二重合唱による対話が始まったかと思うとルネッサンス的な多声音楽が展開されるなど、ラインベルガーの作曲の工夫、魅力がこの短い作品にギュッと詰まっています。
アニュスデイ(c-moll 4/2)
はじめ第1コーラスがフォルテで「神の小羊よ!」語りかけますが、第2コーラスはピアニッシモで「私たちを憐れんでください(miserere nobis)」と控えめに訴えかけます。この言葉の強弱の関係は最後まで変わらず、miserere nobisは常に一歩引いた表現で、決して弱いピアノではなく、控えめですがむしろ強い表現を感じます。ここはラインベルガーが大切にしていた神との関係を垣間見る様です。Dona nobs pacemからは最後まで8声の全体合唱となり、各パート毎にDona nobis pacemのテーマが歌い継がれるなかで、決して華やかになり過ぎることなく静かに深い祈りの中で曲全体が閉じられます。
このように伝統と新しさを巧みに融合させ、「宗教観にあふれ、華やかなポリフォニーの音楽であり、愛情と細やかな想いがこめられた、この時代のアカペラ作品の最高峰」が生み出されたのです。
(馬岡利吏:会員)
J.S.バッハ
ミサ曲ヘ長調 Messe in F-Dur (BWV 233)
1730年代に入ると、ドイツ語によるバッハの新たな作品は極端に少なくなります。カンタータは既存の曲の一部を変更したり教会暦を補充したりする形で作曲する程度であり、受難曲も演奏するたびに作品の補筆や一部の変更を行う程度でした。一方で、ラテン語への関心が高まっていったように思われ、ラテン語で書かれたミサ曲など他者の作品を数多く筆写しています。そして1733年にはドレスデンのザクセン選帝侯に「ミサ曲」(後に「ロ短調ミサ曲」BWV 232の前半部分になります)を献呈し、1738年から1739年にかけてはキリエとグローリアからなる「ルター派ミサ曲」を4曲(BWV 233~236)完成しました。
「ルター派ミサ曲」の4曲はいずれも6つの楽章からなり、第1曲が「キリエ」、第2曲から第6曲が「グローリア」、そして第1曲、第2曲及び第6曲が合唱、第3曲から第5曲がアリアとなっています。更に4曲とも殆どライプツィヒ時代の第1年巻と第3年巻に作曲したドイツ語によるカンタータを原曲としています。
BWV 233は、おそらくヴァイマル時代に書かれた「キリエ ― キリストよ、あなたは神の小羊 ヘ長調」BWV 233aを改訂し、そこに「グローリア」を書き加えたと考えられています。6楽章のうち4楽章がドイツ語で書かれた原曲のカンタータの歌詞をラテン語に置き換え、必要に応じて音符に修正を加えて転用しています。わざわざこのような手の込んだことをするよりも、新たに作曲した方がバッハにとっては容易なことのようにも思えますが、当時の考え方として「アフェクト論」があり、例えば歌詞が「神への讃美」で合致していれば、問題なく利用しておりました。またドイツ語のカンタータはその利用範囲が限られていることも確かで、より普遍性のあるラテン語の曲に拡げる意図もあったのかもしれません。
第1曲 キリエ 合唱 ヘ長調 2/2
原曲のBWV 233aはSI, SII, A, T, B の5声で、SIによってドイツ語によるコラール「キリストよ、あなたは神の小羊」(=ラテン語のAgnus Dei)が歌われましたが、BWV 233ではホルン2本とオーボエ2本がユニゾンでコラール旋律を奏でます。
「第Ⅰキリエ」で合唱フーガが始まり、次の「クリステ・エレイソン」では転回(鏡像)型でフーガが作られ、更に「第Ⅱキリエ」ではこれらが結合して反行フーガとなっています。
さらにバス声部は3つの部分がそれぞれコラール旋律と共に「第二の定旋律」を担っており、『グレゴリオ聖歌的なキリエ』を再現し、同時にこの曲をちょっとしたコラール編曲で際立たせています。
第2曲 グローリア 合唱 ヘ長調 6/8
この曲は原曲が不明ですが、、4曲のミサ曲の大半においてオリジナリティがないことから、パロディが関係していると推測しています。
全体に器楽のリトルネッロが作品を通して異なったテキストで繰り返されながら進んで行くと同時に、絶え間ない16分音符の展開によって、言葉のデクラマチオーン[音楽より言葉の意味や韻律などを優先させる歌唱法]が幾らか目立たなくなっています。そしてこの曲の終盤において、バス声部だけが2回続けて「グラツィアス」を読み上げるように歌いますが、その独立した言葉のリズムを思い起こさせるということであれば、声楽パート全体が器楽化していることを考慮するとまったく驚くべきことです。このミサ曲の「グラツィアス」では、他の3つのミサ曲よりも “わくわくするような勢いのある活気にあふれた演奏” が感じられます。
第3曲 ドミネ・デウス アリア (バス) ハ長調 3/8
三和音の分散音型を主体に、弦楽器と通奏低音のリトルネッロを伴ったアリア。この曲も原曲は不明ですが、第2曲同様パロディが関係しています。バッハはダ・カーポ・アリア形式の原曲を使用していますが、ミサ曲から明らかなように最後の部分を変更してダ・カーポを取りやめ第4曲に繋がるようにしたと考えられます。
崇高な父なる神と子に対する呼びかけの繰り返しにふさわしく、そこには同時に崇拝する気持ちも込められています。
第4曲 クヴィ・トリス アリア (ソプラノ)
原曲のカンタータBWV 102(1726年)の第3曲「喉元を過ぎて熱さを忘れた魂は禍なるかな」に手を加えて完成しました。原曲のアルト・アリアに対して、ソプラノ用に音域を上げるためにヘ短調からト短調に移調しましたが、オーボエはオブリガート楽器としてそのまま使用しています。また通奏低音に関しては原曲では途切れ途切れになっていますが、ミサ曲では一様に結び付いた8分音符で進んで行きます。
声部では幾重にも繰り返される「クヴィQui」という単語に対してデクラマチオーンのためによく考えられており、ミサ曲での歌い初めにふさわしい8分音符のアウフタクトを取り入れています。
第5曲 クオニアム アリア (アルト) ニ短調 3/4
バッハはこの曲に1726年に成立したカンタータBWV 102の第5曲のテノール・アリアを利用しました。声部は原曲ではト短調で作曲されましたが、ミサ曲ではニ短調に移調してアルトが担っているため、器楽パートも低すぎるフルートに代えてヴァイオリンが割り当てられました。この器楽パートはわずかに書き直した部分を除いて、ほぼ変わりなく受け継がれましたが、声楽パートは徹底した見直しが要求されました。 何故なら原曲のテキストにおいて最初の行にある「恐れるerschrecke」という言葉に「罪のくびきSünden Joch」や「怒りZorn」といった言葉が続きますが、バッハはミサ曲に利用する際に、それらに相当する小節の部分をミサ曲の歌詞の内容にふさわしい流れるような音型に作り直しています。
第6曲 クム・サンクト・スピリトゥ 合唱 ヘ長調
終曲はカンタータBWV 40の第1曲が原曲ですが、ここでも異なったテキストのために根本的に作り直しています。まず両曲は確かにアラ・ブレーヴェの様相を呈していますが、原曲が4分音符と8分音符で書かれているのに対して、ミサ曲では2分音符と4分音符にしました。また原曲のフーガ形式の部分が古様式における楽曲の印象に相応しい一方で、協奏曲形式の部分は明らかに縮小されており、実際にこの曲の出だしは原曲の4小節から28小節までの協奏曲形式を省略し、29小節のフーガから始まり、ミサ曲においてはフーガが楽曲全体の中心となっています。
合唱によって、伝統的に聖霊と父なる神の頌栄が満たされ、三位一体としての神の讃美を展開して、全曲を閉じます。
カンタータ第140番(BWV 140)
J.S.バッハ(1685~1750)が教会カンタータを作曲し始めたのはミュールハウゼン時代(1707~1708)で、その後ケーテン時代(1717~1723)を除いた、ヴァイマル時代(1708~1717)、ライプツィヒ時代(1723~1750)を通じて、『故人略伝』(1754年)によれば教会暦5年分(約300曲)を作曲したと言われていますが、現存するのは200曲足らずとなっています。
特にライプツィヒ時代には毎週日曜日の礼拝式や日にちが決まっている祝祭日(例えば12月25日のクリスマス第1日)のために演奏することが義務付けられていたこともあり、特に最初の5年間に集中して作曲しています。その後は教会暦を補充する形で作曲することはありましたが、大半は以前に作曲した作品の再演や他の音楽家の作品を演奏することで、毎週の職務を果たしていたと思われます。
またバッハがライプツィヒ・聖トーマス教会のカントルに就任したのが1723年5月であり、この地でカンタータを初めて作曲したのが5月30日の「三位一体節後第1日曜日」用カンタータ第75番(BWV 75)であることから、今日ではこの日を基準に1年間の作品をまとめたものを「カンタータ年巻」と言い、 1年目を第1年巻、2年目を第2年巻、という風に呼んでいます。特に1724年から1725年にかけての第2年巻は、コラールをメインにおいた「コラール・カンタータ年巻」と称しています。様々なコラールを、主としてソプラノパートに長い音価による定旋律を受け持たせ、他の3パートが比較的速いパッセージで進んでいく手法によって、カンタータの第1曲を合唱曲に仕上げています。
ただ、その年の教会暦によって日曜日が祝日と重なっていたり、その年には現れない日曜日があったりします。コラール・カンタータとして作曲されたBWV 140は1731年11月25日の三位一体節後第27日曜日という、復活節が3月26日以前に繰り上がった年にのみ現れる同日用に作曲された唯一のカンタータであり、バッハはこれを「コラール・カンタータ年巻」に組み入れました。
宗教改革を機にマルティン・ルター(1483~1546)によって、それまでドイツでも唱われていたラテン語歌詞によるグレゴリオ聖歌に代わり、会衆にもっと理解しやすいドイツ語歌詞によるコラールが提唱されました。新たに作曲した他、グレゴリオ聖歌の歌詞を変えたり、当時はやりの民衆歌を編曲したりするなど、ルター自身によるものを含め、多くのコラールが作られました。BWV 140に用いられたコラールは、当時ドイツ・コラールの歴史上ひときわ大きく光る「コラールの王」と讃えられたフィリップ・ニコライ(1566~1608)によるものです。
バッハは様々なコラールをカンタータだけでなく、モテット、受難曲、オラトリオ、さらにオルガン曲や他の器楽曲など、多くの分野で用いています。
第1曲 コラール合唱 変ホ長調 3/4
冒頭4小節にわたって登場する12回の付点リズムは真夜中の時を告げる時鐘を象徴しているかのようであり、やがてソプラノが音価の長いコラール定旋律を歌い始め、他の3声がテキストを行毎にポリフォニックに歌っていき、真夜中の静寂を破って「目を覚ましなさい」という物見らの呼び声が響き渡るような曲作りになっています。
第2曲 レチタティーヴォ (テノール)
「イエスはいと高きところから降りてきて、『カモシカのように丘を駆け抜けてくる』(ソロモンの雅歌)」と告げます。そして婚礼の祝宴を前に再び「目を覚ましなさい」の声が発せられます。
第3曲 二重唱 (ソプラノとバス) ハ短調 6/8
ヴィオリーノ・ピッコロの技巧的なオブリガートを伴う、魂とイエスの間で交わされる愛の二重唱。
第4曲 コラール (テノール) 変ホ長調 4/4
テノールがコラールの第2節をのびやかに歌い上げます。この曲は、のちにオルガン曲に編曲された6曲からなる『シュープラー・コラール集』(BWV 645~650)の第1曲としてよく知られています。
第5曲 レチタティーヴォ (バス)
「花婿はついにやって来た」と告げます。イエスを擬人化したバスが「永遠の契り」を宣言。
第6曲 二重唱 (ソプラノとバス) 変ロ長調 4/4
先行する軽やかなオーボエの演奏にソプラノとバスの二重唱が続きます。魂とイエスの幸福を明るく曇りのない音楽で表現しています。
第7曲 コラール 変ホ長調 2/2
喜びのうちに簡潔な4声合唱で締めくくります。
(大石康夫:会員)